カネノナルキ

思ったことを気ままに書きます

【就活】面接は"愛の告白"だ - 今からできる面接対策

いよいよ17卒の就活面接が解禁

6月1日から日系企業の採用活動が公式に解禁される。

僕は5-6年前に就活を終えたアラサーの社会人だが、OB訪問やセミナーを通じて就活生と接していて、思うところをまとめてみたいと思う。

ここまでくると本番までに個々人のスペックを飛躍的に伸ばすことは難しいと思うが、本稿では一発勝負の面接を乗りきる上でのアドバイスを紹介したい。

端的に言えば、

「商品としての自分自身を売り込む気持ちで面接しよう!!」

という話。

今さら自分のカタログスペック(学歴・実績)を変えることは出来ないけど、せめて自分という商品をよく見せる工夫をしようねということだ。

面接は"告白"の場

「見た通り、僕は背も低いし・・ 顔もカッコ良くないし・・・正直・・何のとりえもないヤツだけど・・・・・その・・もしよかったら僕と・・・その・・・付き合ってもらえませんか・・・?」
「例えば…あなたが電化製品を買うとして、"正直、この商品は機能も少なくて性能も使い勝手も悪いですが、よかったら買って下さい"なんて、店員さんから勧められたりしたら…買いますか…?」
「買わ…ないと…思います…」
「自分で良いと思ってないものを人に勧めるなんて、失礼だと思うんです。」
漫画『今日のあすかショー』での有名なやり取りだが、これは主人公のあすかがオクテな男子からの告白を断るシーンのものだ。

(ここから先の展開がまた面白いので、気になった方は原作をあたってみてほしい)
で、これ実は就活でもメチャメチャ大事な話なんだけど、出来ていない学生はものすごく多い。特に内定の出ない高学歴の半分くらいは、これが原因なんじゃないかと思う。

背筋を伸ばして、ハキハキと、自分のしてきたこと、出来ることを精一杯アピールする。

中身が大したこと無いように思われても、いや、そう思われるからこそ、胸を張って話すように心掛けてみてほしい。

就活生なんて、ごく一部の最上位層を除けばスペックは似たり寄ったりだ。アピールのしかた次第で、自分は良くも悪くも映る。

一生懸命自己PRを考えるのはとても大事だ。けれどそのPRは、エントリーシートに書くためだけのものじゃない。

伝えるところまでいって、初めてPRが成立するのだ。

体育会系はなぜ強いのか

ところで体育会系が強いと言われる風潮の背景には、彼らの体力やメンタルタフネスが買われている以上に、この仕組みを肌で感じた経験があるからなのではないかと思う。

彼らはレギュラー争いなどの競争過程でこの辺の事情を嫌と言うほど味わっているから、自然とこういう仕組みをわかっているのだ。

先輩やコーチの目に自分がどう映るかがどれだけ大事か、身をもって知っている。

そしてまた、一発勝負で実力を証明することの難しさも自覚しているのである。

終わりに - 自己PRは入社後も続く

この"自分を売り込む"技術の必要性をなぜここまで強調するかと言うと、それが社会人になってからも大事なスキルになるからだ。

自社の商品やサービスを売り込むために、社内外のカウンターパートに信用されるために、自ずと必要になる場面が来る。

だからこそ、その辺りわかってるのかな?というのが面接官の見ていることだ。 

就活の過程では、選考落ちのショックや周囲への劣等感から、自己肯定感を保つのは大変だ。 これほど露骨に他者から自分を否定される経験は、後にも先にもなかなか無いだろう。

けれども、自分が愛の告白を受ける立場だとして、どんな風に想いを伝えてほしいのか。

そんな視点を忘れずに、背筋を伸ばして面接本番に臨めば、きっと光は見えてくると思う。


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植物大好きなタクシー運転手と出会った話

今週のお題」植物大好き というフレーズを見て思い出した話がある。

仕事がら都内の移動に時々タクシーを利用しているが、4月の半ば頃に素敵な運転手さんとの出会いがあった。

タクシー運転手というのは本当に人それぞれだ。

狭い空間で誰も彼らの仕事ぶりを監視していないからか、運転の仕方から乗客とのコミュニケーションの取り方ひとつひとつに個性がにじみ出る。

マニュアル化されている電車やバスにはない面白さがそこにはあるのだ(もちろん、荒い運転に苛立たされることも少なくないが)。

平日の昼下がり、僕がタクシーの後部座席に乗り込むと、

「桜ももう散っちゃいましたねぇ。」

彼はそう切り出した。

川沿いに並ぶ桜が有名な道だ。ここまではよくある会話の流れだろう。

ところが彼は、僕が残念ですね相槌を打つと、続けざまに目的地までの道のりに咲いている植物について語り始めた。

ここの梅がきれいなんだ、ここには立派な百日紅が生えているんだと、彼は運転しながら僕に景色を眺めるよう促した。

品川辺りにシンボルツリーとして植樹された巨大なオリーブの木はわざわざ海外から運んできたんだとか言う豆知識も織り混ぜつつ、まるでツアーガイドのように、彼は僕を楽しませてくれた。

聞けば、道端で知らない花を見れば家に帰って植物図鑑を開いて調べることが趣味になっているという。

しばらくそんな話を続けていると、

「木蓮とコブシの見分けかたはわかりますか?」

彼からそんな質問を投げ掛けられたところで、残念なことにタクシーは目的地に到着した。

答えを持ち合わせていなかった僕は、家に帰って自分で調べてみることにした。初めての経験だった。

都内の植物なんて、整備された桜並木や庭園くらいしかまともに鑑賞したことがなかったことが、何だか気恥ずかしくなってくるような不思議な体験だった。

けれど、

楽しもうと思えば、景色の見えかたも変わってくる。

そんな当たり前のことを思い出させてくれる人生の先輩に出会えた、素敵な午後だった。

そんな彼に影響されて、僕は先日バジルの苗を買って自宅で育て始めた。

食用にも使えて手入れも簡単そうなものを、という安易な理由で選んだヤツだけれど、だんだん愛着が沸いてきた。

植物を楽しむことで広がる世界の入り口を教えてくれた運転手さんへの感謝しながら、まずは目の前のバジルを大事に育てていきたい。

スマホゲーの "エンディング" について - 物語に着地点は必要か -

シナリオを書くときに起承転結を意識するのは、もはや時代遅れだろうか。

いわゆるスマホゲーの世界では、僕が知る限りほとんどのゲームにおいて、シナリオライターは明確な着地点を意識していないように見える。

魅力的な設定でプレーヤーを惹きつけて金を搾り取るきっかけを作ったが最後、物語の「オチ」については敢えてぼやかしておくことで、いくらでも回り道をして、終わりをほのめかしながらストーリーを引き延ばしていくのが一つの常道となっていることに異論はないだろう。

なるほど一度このような構造を作ってしまえば、商業主義的には大成功である。いわずもがな、シリーズものは儲かるからだ。

漫画の世界においても、黒の組織の親玉が誰であろうがワンピースなる大秘宝の正体が何であろうが、そんなものは気にせずにストーリーを読みすすめている読者がもはや大半だ。コナン君が小2になって新しいクラスメートに出会うことなど、読者は望んでいない。
完成された人間関係の枠の中で、なんとなく話が前に進んでいるような感覚を保っておくことが、読者を安心させているとすらいえる。

しかしながら、このようにプレーヤーや読者をただただ物語の世界観に浸らせ、彼ら彼女らにその場その場の雰囲気を楽しませておけばよいのだという風潮に嫌気がさしているのはきっと僕だけではないはずだ。

その理由を言語化するのは難しいが、一言で言うならば「安っぽい物語」への嫌悪感からである。

物語とは、ちりばめられた伏線を丁寧に回収しながら計算された道筋を辿り、目まぐるしい展開を経て、最後の着地点においてカタルシスを迎えるべきだ——といった様式美が必ずしも正解だとは言い切れない。それで商業的な成功を収めるならば正解だという立場もあろう。

だが、典型的な物語の様式が失われていった果てに残るのは、きっとファストフード的物語の山々だ。

アンパンマン水戸黄門のように固定化された設定の中でお約束の展開を重ねながら、根本的には何も世界観や登場人物の関係性に変化は起こらない。その場しのぎの30分を消費するには十分だが、それ以上ではなく、退屈で奥行きのない世界である。

物語の鑑賞に慣れた人たちにとっては、興味の対象となりえないチープな物語に過ぎない。

だが、ひとたびファストフード的物語がプレーヤーの間で支配的になってしまえば、クリエイターは需要に合わせた物語を作り始めてしまうだろう(もう手遅れかもしれないが)。

物語の文化を守るためにも、クリエイターにはその場しのぎに甘えず、奥行きのある世界を作り続けてほしいと思う。
そこに残るのが、名作と呼ばれる物語だと僕は信じている。

すでに走り出しているシナリオたちが、うまく方向を変えて美しい着地姿勢を決めてくれることと、着地するまでプレーヤーが飽きずにクリエーターを見つめ続けてくれていることを、祈ってやまない。

物語たちのエンディングが、「サービス打ち切り」でありませんように。