スマホゲーの "エンディング" について - 物語に着地点は必要か -
シナリオを書くときに起承転結を意識するのは、もはや時代遅れだろうか。
いわゆるスマホゲーの世界では、僕が知る限りほとんどのゲームにおいて、シナリオライターは明確な着地点を意識していないように見える。
魅力的な設定でプレーヤーを惹きつけて金を搾り取るきっかけを作ったが最後、物語の「オチ」については敢えてぼやかしておくことで、いくらでも回り道をして、終わりをほのめかしながらストーリーを引き延ばしていくのが一つの常道となっていることに異論はないだろう。
なるほど一度このような構造を作ってしまえば、商業主義的には大成功である。いわずもがな、シリーズものは儲かるからだ。
漫画の世界においても、黒の組織の親玉が誰であろうがワンピースなる大秘宝の正体が何であろうが、そんなものは気にせずにストーリーを読みすすめている読者がもはや大半だ。コナン君が小2になって新しいクラスメートに出会うことなど、読者は望んでいない。
完成された人間関係の枠の中で、なんとなく話が前に進んでいるような感覚を保っておくことが、読者を安心させているとすらいえる。
しかしながら、このようにプレーヤーや読者をただただ物語の世界観に浸らせ、彼ら彼女らにその場その場の雰囲気を楽しませておけばよいのだという風潮に嫌気がさしているのはきっと僕だけではないはずだ。
その理由を言語化するのは難しいが、一言で言うならば「安っぽい物語」への嫌悪感からである。
物語とは、ちりばめられた伏線を丁寧に回収しながら計算された道筋を辿り、目まぐるしい展開を経て、最後の着地点においてカタルシスを迎えるべきだ——といった様式美が必ずしも正解だとは言い切れない。それで商業的な成功を収めるならば正解だという立場もあろう。
だが、典型的な物語の様式が失われていった果てに残るのは、きっとファストフード的物語の山々だ。
アンパンマンや水戸黄門のように固定化された設定の中でお約束の展開を重ねながら、根本的には何も世界観や登場人物の関係性に変化は起こらない。その場しのぎの30分を消費するには十分だが、それ以上ではなく、退屈で奥行きのない世界である。
物語の鑑賞に慣れた人たちにとっては、興味の対象となりえないチープな物語に過ぎない。
だが、ひとたびファストフード的物語がプレーヤーの間で支配的になってしまえば、クリエイターは需要に合わせた物語を作り始めてしまうだろう(もう手遅れかもしれないが)。
物語の文化を守るためにも、クリエイターにはその場しのぎに甘えず、奥行きのある世界を作り続けてほしいと思う。
そこに残るのが、名作と呼ばれる物語だと僕は信じている。
すでに走り出しているシナリオたちが、うまく方向を変えて美しい着地姿勢を決めてくれることと、着地するまでプレーヤーが飽きずにクリエーターを見つめ続けてくれていることを、祈ってやまない。
物語たちのエンディングが、「サービス打ち切り」でありませんように。